試 練 -2-

「ふぅー。今日もすっかり遅くなっちゃったな…。」
奈津実に相談してから1週間が経っていた。誰もいなくなった部室でフルートを片付けながら珊瑚は独りごちて、今日何度目になるかわからないため息を吐(つ)いた。練習の時はまずまず吹けるソロなのだが、やはりみんなと合わせるとどうも浮いてしまった感じがして自分の中でしっくりこないのだ。煮詰まっているのはわかっているので、あれこれ趣向を凝らして気分転換もしているのだが、どうも上手くいかない。こんなことは初めてだ。
「藤井ちゃんの言うとおり、少し休んだ方がいいのかもなぁ…。」
とは言ってみたものの、勝手に部活をサボるわけにもいかないのが現状だ。少し重い足取りで思案しながら校門を出て行く珊瑚であった。

いつもより重く感じるフルートのケースを持ち替えながら歩き、児童公園へ差し掛かった。何気なく公園の中へ視線をやって見つけたその影に、気がつけば声を掛けていた。
「タマちゃんじゃない!なにしてるの?」
「あ、あのね…… ロッカーのキー、なくしちゃって……。」
滑り台の下を覗(のぞ)いていた姿勢から身を起こしてこちらを向いたのは珠美だ。近寄ってみると、かなり困っているらしく眉が寄っているのがわかった。
「あ、バスケ部の、スコアブックとか入ってるロッカーなんだけど……。」
説明を補足する珠美の言葉に、珊瑚も事の重大さに目を丸くした。
「それってたいへん!とにかく探そうよ!手伝ってあげる!」
滑り台の上に鞄を置いて珠美の近くにしゃがみ込む珊瑚。珠美も同じようにしゃがみこみながら、しょんぼりした様子で口を開いた。
「うん…… でも、さっきから探してるんだけど、全然、見つからないから……。」
なぐさめようと視線を上げてふと、珠美のポケットのふくらみに気付いた珊瑚が指さして口を開いた。
「ね、ポケットとか、探してみた?」
「え?」
「なにか入ってるみたいだよ?」
珠美は慌てて立ち上がり、そっとポケットに手を入れると中に入っていた物を取り出した。
「……あ、あった!」
開いた手のひらに乗っていたのは探していた鍵だったようだ。途端に笑顔になって鍵を握りしめると珠美は珊瑚に向かって頭を下げた。
「あ、ありがとう!珊瑚ちゃん!……よかったぁ。」
「はぁー、ひと安心だね。」
珊瑚も立ち上がってパンパンと膝に付いた砂を払うとにっこり笑いかけた。
「……うん。心配かけて、ゴメンね。ありがとう……。」
今度こそ忘れないようにと鞄の中に入れる珠美。そして、大事そうに鞄を抱えると手を振った。
「じゃあね、珊瑚ちゃん。」
「うん。じゃあね、タマちゃん。」
珊瑚も手を振り返して珠美と別れると自宅へと帰っていった。

家に帰ってから楽譜を広げてみたものの、珊瑚はフルートを手にすることはなかった。フルートを持つのがこんなに苦痛に思える日が来るなんて思ってもみなかったので、正直かなり戸惑っている。こんな気持ちで演奏したところで良い音色が出るはずもないのだ。色々考えてみた結果、奈津実の言うとおりしばらくフルートを触らないで気持ちを落ち着けようと、やっとの思いで結論を出した。問題は、ほぼ毎日ある部活である。
「ヒムロッチに相談してみようかな…。休む休まないは別にして、何か現状を打破できる良いアドバイスとかもらえるかもしれないし。」
何をやっても上手くいかない時というのはあるものだ。珊瑚はため息を一つ吐(つ)くと、楽譜を閉じてフルートのケースの上に放り投げた。

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今日は火曜日。和奏と一緒のアルバイトの日だ。客の出入りが一段落したところで、グラスを磨きながら和奏が声を掛けてきた。
「ね?さぁちゃん?」
「…?なぁに?」
ちなみに珊瑚は休憩中だ。アイスコーヒーのストローを銜(くわ)えたまま和奏に視線を合わせる。和奏はグラスを落としてはいけないので視線を合わせはしなかったが、珊瑚がこちらを見た気配を確認して口を開いた。
「…違ってたらゴメンね?」
「……?」
「もしかして、スランプ?」
全てのグラスを磨き終えたのか、和奏が振り返りざまにそう聞いた。珊瑚は絶句した後、はぁーっと深いため息をついた。
「…やっぱ、わかる?」
「そりゃね、付き合い、長いですから。」
苦笑してそう言うと和奏はまた視線を客席に向けた。珊瑚は飲み終えたグラスを手早く洗いながらも少し憂鬱(ゆううつ)そうな表情だ。そんな珊瑚の横顔を見て、和奏は銀のトレイを手に取ると湯を沸かし始めた。
「上手くいかないときは休んでみるのも手だよ?」
「へ…?」
「あんまり根詰めすぎると余計に上手くいかないよ?」
デリバリーの準備をしながら心配そうにそう声を掛けると、珊瑚はかなり驚いたような表情をした。それを見た和奏が不思議そうに首を捻(ひね)る。
「? …わたし、なんか変なこと言ったっけ?」
「ううーん。同じようなことをこないだ藤井ちゃんにも言われたんだよね。だからちょっとびっくりした。」
肩を竦(すく)めてそう言って笑うと、つられて和奏も笑顔を見せた。しかし、すぐ心配そうな表情に戻る。
「だったらなおのこと、休んでみた方がいいよ?氷室先生に相談してみたら?そこまでわからない先生じゃないでしょ?」
「う…ん、そうだよね。明日、相談してみる。」
「ん、あんまり考え込まないようにね?それじゃ、デリバリー、行って来ま〜す♪」
「いってらっしゃーい♪」
和奏を見送り一人になると、珊瑚はようやく決心が付いたように一つ頷(うなず)いた。
「藤井ちゃんもわぁちゃんもあぁ言ってくれたんだし、ダメ元でヒムロッチに相談してみよう。」
そう決心してしまうと、少し気持ちも楽になり余裕も出てきた。珊瑚は営業スマイルを取り戻すと、今し方開いたドアに向かって声を張り上げた。
「いらっしゃいませー!」

「失礼します。」
翌日の放課後。和奏と下駄箱で別れた珊瑚は、部室ではなく職員室へと向かった。ドアをノックして部屋に入ると、一番奥の席で零一がプリントを纏(まと)めているのが見えた。誰にともなくぺこりと頭を下げて奥へと入っていき、緊張する胸を押さえながら声を掛けた。
「…氷室先生。少し、お時間よろしいですか?」
「海藤。どうした。」
少し怪訝そうな表情で零一が珊瑚の方をちらりと見た。そして、纏(まと)めていたプリントをきっちり揃(そろ)えて、机の右端に置くと珊瑚の方へと向き直った。それを待ってから珊瑚は正直に今の状況を零一に話した。零一は口を挟まず、ときおり頷(うなず)きながら珊瑚の話を聞き終えると、少し思案した後口を開いた。
「君の言い分はよくわかった。だが、一週間は少し長いな… 三日だけ、休むことを許可しよう。」
「三日… ですか…?」
まさかこうすんなりと休みを許可してくれるとは思わなかったので、珊瑚はびっくりして思わず聞き返していた。零一は気を悪くした風もなく、珊瑚の言葉に頷(うなず)くと更に言葉を重ねた。
「そうだ。君もよくわかっていると思うが、楽器に触れていない期間が長くなると細かなタイミングが狂いやすい。その感を取り戻すには休んだ以上の期間がかかる。それだけは避けなければならない。」
零一の言葉はもっともだった。そこまで考えが及ばなかった珊瑚は零一の言い分を素直に受け入れ、それでも三日間欠席の許可をくれた零一に頭を下げた。
「我が儘(まま)を言って申し訳ありません。」
「自分の体調をコントロールするのも大事なことだ。しっかり休みなさい。」
珊瑚はもう一度頭を下げると職員室を後にした。そんな珊瑚に優しい笑みを向けていた零一の表情を見る者はいなかった。

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