その日は朝から土砂降りの雨だった。それに加えて風も強くお気に入りの傘の骨が一本折れてしまった。そして明日提出のこの数学の宿題…。珊瑚にとってはまさに厄日としか言いようのない日だった。頼みの綱の和奏も今日はどうしてもクラブを抜けることが出来ないらしく、志穂に至っては予備校へ超特急で行ってしまって、大人しく1人で図書室に来ているのである。が…。
「うーん、数学の宿題片づけに図書室に来たけど、こ、この難しい問題は何っ!?」
最近、授業をちゃんと受けていないのが完全に裏目に出ていた。教科書とにらめっこしながら何とか一問目が解けたところである。が、先はまだまだ長い。
「わぁー、もう、氷室先生のバカー!難しいよー!!」
図書室なので声を抑えめにしながらもついつい恨み言が口から出る。と、すっと影が差した。
「あの、その問題ですけど……。」
「はっ、はい?」
声を掛けられたことにびっくりして思わず大声を出してしまう珊瑚。途端に周りから冷たい視線が集まり、ぺこぺこと頭を下げて座り直す。
「あ、ご、ごめんなさい。お困りのようだったから……。」
声を掛けてきた彼も律儀に一緒に頭を下げて、隣の椅子に座りそう言ってくれた。途端に珊瑚は目を輝かせ、
「え?もしかして教えてくれるの!!」
と嬉しそうに言うと、
「ハイ。あ、僕もさっき解いたばかりですから。」
と穏やかな笑みを返してくれたのだった。
「……となります。するとこの条件から、角度“a”が求められます。」
なんでもないことのように実にわかりやすく丁寧に解説してくれる彼に珊瑚は感嘆のため息をついた。
「す、すごい!難問奇問がすらすら……貴方は、いったい!?」
「え?あ、ごめんなさい!問題に夢中になってしまって。自己紹介もまだでしたね。」
そう言って、彼は珊瑚に視線を向けた。
「僕は守村、守村 桜弥と言います。……あの、あなたは……。」
「私は、海藤 珊瑚。そっか、貴方があの守村だったのね。」
珊瑚がそう言うと、桜弥は照れたような笑みを見せた。
「あの、『あの守村』って言うのは一体…?」
「あ、ううん、なんでもない。こっちのこと。そうそう!中等部の時も葉月やありりん…っと、有沢さんのコトね?と並んでトップ争いしてたよね?」
「あぁ… いえ、トップ争いだなんてそんな… 僕なんて葉月くんや有沢さんには足下にも及びませんよ。」
僅かに苦笑しながらそう言って否定の言葉を述べると席を立つ桜弥。
「あの…… 海藤さん。もし他にもわからない問題があったら、声をかけてくださいね。一緒に考えましょう。」
そして少し離れた一つの席を指さした。
「僕はあそこで本を読んでますから、いつでもどうぞ。それでは、また。」
珊瑚の勉強の邪魔にならないように気遣って席を離れてくれたのだ。珊瑚はお礼を言うと、先ほどとはうってかわって俄然(がぜん)やる気になっていた。
(あのコが守村か……。優しそうだな。)
そうして時々桜弥の手も借りながら半分ほど片づけたところで和奏がやってきた。その時には桜弥も珊瑚の対面に座って園芸百科を広げていたので、それを目にした和奏は不思議そうに珊瑚に近づいていく。
「さぁちゃん!遅くなってごめんねぇ…。そちらの方は?」
「あ、ううん。大丈夫。あ、彼ね、守村 桜弥君。今まで宿題のわからないところ、教わってたの。」
「そうだったんだ。初めまして。わたし、B組の如月 和奏です。」
ぺこりと頭を下げて自己紹介をすると、桜弥も笑顔を見せて、
「初めまして。僕はC組です。お隣ですね。」
と会釈を返してくれた。和奏は桜弥の顔に見覚えがあったのか、あっと小さく声を上げた。
「そう言えば、守村くん、よく氷室先生に質問しに職員室に行ってない?」
「え?ど、どうして知ってるんですか?」
びっくりして問う桜弥に和奏はいたずらっこのような笑みを見せた。
「わたしも、そうだから。わたしが質問に行くといつも守村くんが氷室先生のところにいるんだもの。」
「あ、そうだったんですね?僕は気付かなかったなぁ… すいません。」
「ううん、いいのいいの。いつも会うからなんとなく覚えてただけだから。」
妙なところで共通項を見つけて嬉しそうな和奏を横目で見ながら珊瑚はつまらなそうに呟いた。
「お話が盛り上がってるところ、申し訳ないんだけど…。」
「え?あ、ごめん!どこがわからない?」
和奏が来たことで自分は用済みだと判断した桜弥は立ち上がった。
「それじゃ、僕はこれで。」
「あ、今までごめんね。助かったわ、ありがとう。」
「守村くん、またね。」
そして2人で急ピッチでなんとか宿題を終わらせると、クラブ帰りの珠美と校門前で会ったので3人連れ立って帰宅することになった。
翌日、件(くだん)の宿題を提出し終えて悠々と音楽室へ向かう珊瑚の後ろ姿を、苦笑しながら見送る和奏の姿があった。
「次週日曜、課外授業を行う。」
A組のホームルーム中である。零一の突然の宣言に教室内が少しざわめいた。
「今回はプラネタリウムを鑑賞する。参加希望者はいるか?」
(課外授業かぁ… 面白そうだなぁ…。)
ちらりと横を見ると志穂が真っ直ぐ手を挙げていた。それを確認すると珊瑚もすぐに手を挙げる。
「よろしい。今挙手した者は次週日曜午前10時、駅前広場に集合するように。以上。」
日直の号令と共に零一がきびきびとした動作で教室を出ていく。途端にもどってきたざわめきに紛れ、珊瑚は志穂の席へと向かった。
「ありりんも参加、するんだよね?」
「ええ。お休みの日に氷室先生の講義を受けられるなんて、こんな光栄なことないから。」
「じゃあさ、一緒に行かない?私も参加組。」
「いいわね。」
「んっと、10時集合だから、9時30分に児童公園で待ち合わせでどう?」
「わかったわ。それじゃ私、予備校があるから。」
「うん!頑張ってね。」
「……海藤さん。」
立ち上がった志穂が一瞬躊躇(ちゅうちょ)して珊瑚の名前を呼んだ。珊瑚はクエスチョンマークを浮かべて首を傾(かし)げる。
「余計なお世話かも知れないけど、あなたももうちょっと勉強した方がいいと思うわ。」
「へ!?」
突然の言葉にびっくりして珊瑚は目を丸くして志穂を見た。
「最近、クラブばかりで勉強、手に着いてないでしょ?」
「あ、あぁ… うん。ありがと。」
「それじゃ。」
それだけを言うと志穂はさっさと教室から出ていった。苦笑しながらその姿を見送った珊瑚は
「……わかってはいるんだけど、ね…。」
そう呟くとフルートの入ったケースを抱え、音楽室へと向かうのであった。
「あ、わぁちゃん!」
練習が終わり下駄箱まで降りてくると、和奏が靴を履き替えているところに出会った。和奏も笑みを見せて珊瑚を待つ。
「今、練習終わったの?」
「うん。ね、今日わぁちゃんち寄ってもいい?」
靴を履き替えながら聞く珊瑚。和奏はきょとんとした表情で、
「別に良いけど… どうしたの、急に?」
「うん、ちょっとね。尽に聞きたいことがあってさ。」
「尽に???」
いくつかの見知った顔に挨拶をして、和奏と連れ立って学校を後にする。
「あのね、こないだの宿題手伝ってもらったお礼を、何かしたいなぁと思ってさ。守村に。」
「あぁ、なるほど!守村くんのことは全然知らないもんね。」
「そゆこと。」
そんな話をしながら和奏の家へと並んで歩いた。
「ただいま〜。」
「お邪魔しまーす。」
「さぁちゃん来てるからねぇ。」
キッチンにいる母に向かってそれだけを告げると、和奏は自分の部屋へと上がっていく。珊瑚も続いて上がっていきひとまず和奏の部屋で着替えるのを待った。
「多分、自分の部屋にいると思うけど?」
着替えながら和奏がそういう。珊瑚は和奏のパソコンではばたきネットをチェックしていた。
「あぁ、うん。わぁちゃんも一緒にどう?」
「うん。それはいいけど…っと、お待たせ。」
和奏は今日は普段着に着替えていた。別にこれからどこへ出かけるわけでもないし、今更気を遣う間柄でもないのである。そうして2人で連れ立って尽の部屋に行き、ノックをして声を掛けた。
「尽、ちょっといい?」
「あ、開いているから、勝手に入ってよ。」
そんな声が聞こえて尽の部屋に入っていくと、尽は目を丸めて珊瑚を見た。
「どうしたの?なんか用?」
「ねえ、尽は自分を磨くために色々と情報集めてるんだったよね?未だに。」
「そうだけど…… あ、なんか、教えて欲しいことあんの?」
ニィーッと笑った顔に笑顔で答える珊瑚。尽の態度には色々と思うところがあったが、とりあえず和奏は口を挟まずに尽のベッドに腰掛け2人のやりとりを聞くことにした。
「あのね……。守村って知ってる?守村 桜弥。彼の情報が知りたいんだけど。」
「守村だね。ちょっと待って…。」
いくつかのノートを引っ張り出してきて、ぱらぱらとページをめくっていく。何気なく覗(のぞ)くとびっしりと書き込まれているようだ。相変わらずだなぁ… と思いながら、尽が目的のページを見つけるのを待つ。
「あ、あった。こんな感じだよ。」
と尽がノートをそのまま渡してくれた。珊瑚はそこに書いてあるのを目で追って、あっと小さく声を上げた。
「来週、誕生日じゃない。」
「え?守村くんの?」
珊瑚の言葉に和奏も腰を浮かせて尽のノートを覗(のぞ)き込んだ。
「あ、ホントだね。守村ならやっぱり植物関係がいいんじゃないか?プレゼント。」
先読みして尽がそう言う。珊瑚もただお礼だと言うよりも誕生日のプレゼントも兼ねてと言った方が、相手も気を遣わなくて済むかと思い、誕生日に何かプレゼントをすることに決めた。ついでに携帯の番号もメモしておく。
「ありがと。助かったわ。」
「どういたしまして。そんじゃ、ま、せいぜいがんばってよ。」
憎まれ口も相変わらずな尽の部屋を後にすると、和奏の母が出してくれたケーキを頂いて珊瑚はすぐに帰宅した。