贈 物

三学期も大詰めを迎え、吹奏楽部では部員の無記名投票による役員選出が行われていた。部長だけはよっぽどの事がない限り今年度の経験を買われて副部長が繰り上げ当選されるので、実際に決めるのは副部長と会計だ。次期部長になる現副部長の女生徒 ─── 2年生のバイオリン担当鳴沢 響子による指示の元、投票用紙が配られていく。そしてそれぞれに適任と思う生徒の名前を記入して、零一の前にある投票箱へ順次入れることになっている。珊瑚は思案の末、副部長に美代の名前を、会計には大太鼓担当の2年生岩田 烈の名前を記入して投票した。
「全員、投票しましたね?」
ぐるりと見渡して確認すると響子は零一から投票箱を受け取り、現会計の生徒がチョークを手に黒板の前に立った。
「では、開票します。」
始めに出てくるのは誰の名前なのか部員全員が注目する中、響子の声が響いた。
「副部長、海藤 珊瑚。会計、小寺 美代。」
珊瑚も美代も驚いてお互いを見つめ、響子へと視線を戻す。そして次々と名前が発表されていく中、零一が満足げに微かな笑みを浮かべていたのだが気付いた生徒は誰もいなかった。
「次、副部長、海藤 珊瑚。会計、岩田 烈。次…。」
珊瑚は呆然(ぼうぜん)と黒板に書いてある自分の名前とその下に増えていく『正』の字の数を見つめていた。ほぼ全員が副部長へと珊瑚を推しているらしく、他の名前を聞くことがほとんどない。結果──。
「では、投票の結果、副部長は海藤さんに、会計は岩田君に決定しました。お二人は前へ出てきてください。」
響子の声に皆の拍手が起こり、烈と共に珊瑚はまだどこか信じられない様子で響子の隣に立った。
「海藤さんから、新任のご挨拶(あいさつ)を。」
笑顔の響子に促されて、頷(うなず)くと珊瑚は気を取り直し表情を引き締めて口を開いた。
「皆さんの推薦で副部長に就任しました、1年A組フルート担当海藤 珊瑚です。皆さんの期待に添えるよう精一杯頑張りますので、よろしくお願いいたします。」
ぺこりと頭を下げて一歩下がると、反対に烈が一歩前に出て同じように挨拶(あいさつ)をした。全員の拍手の元、響子が再び前に出る。
「では、これより一年間、部長は私、鳴沢 響子が、副部長は海藤 珊瑚さん、会計は岩田 烈くんの3名で頑張っていきますので、皆さんのご助力をどうぞよろしくお願いいたします。」
響子の礼に合わせて珊瑚と剛ももう一度礼をすると、再び拍手が湧(わ)き起こった。

「海藤さん、すごいねー!ほぼ全員だよ!」
解散になった後で美代が興奮気味にそう言って近づいてきた。珊瑚はまだどこか半信半疑の様子だ。
「文化祭前にあんな失態をしでかしたのに…。みんな物好きだよね。」
「それだけ、あの文化祭での出来事は良い方に評価されてるってことだよ。当日のソロだって完璧だったじゃない。」
美代が珊瑚の右腕を軽く叩(たた)いてにっこりと笑う。と、
「海藤さん。これから役員の打ち合わせをするから、ちょっとだけ残っててもらえるかしら?」
響子の声が割って入った。珊瑚ははい、と返事をすると美代に向かって両手を合わせる。
「ごめん、それじゃ行ってくる。」
「うん、頑張ってね、新副部長さん♪」
そう言って手を振ると美代は他の部員と連れ立って帰っていった。

ライン

(すっかり遅くなっちゃった。)
引き継ぎやらなんやらで音楽室から学生会館にある部室へと場所を移し、一通り仕事の手順を説明してもらった後で珊瑚は1人音楽室に戻ってきた。最後の施錠は副部長の仕事になっているためだ。まだどこか地に足がつかない様子で音楽室のある階に辿(たど)り着くと、小さく響くメロディが珊瑚を出迎えた。
(……あれ?ピアノの音がする……。まだ誰か残っているのかな?)
最終下校時刻まではまだ間があるが今日は早めの解散になっていたはずで、首を傾(かし)げながら歩を進める。音楽室に近づくにつれて、ピアノの音色が優しく温かく珊瑚を包み込んでいく。
(……すごく優しい演奏、どんな人が弾いているんだろ……邪魔しないようにしなきゃ。)
そう思って少しの間音楽室の外で耳を傾けていたのだが、どうにも弾き手が誰なのか気になって仕方がなくなってきた。
(ちょっとだけ…いいよね?)
音楽室のドアをほんの少しだけ開け、そっと覗(のぞ)いた珊瑚はそこにある姿に素直に驚いた。
(……!!氷室先生!?)
途端に右肘(ひじ)をドアにぶつけ、小さな音がした。不協和音にはたとピアノの音が中断される。珊瑚は首を竦(すく)めて目を瞑(つぶ)った。
(いけない!!)
「海藤……。」
(かす)かな呼びかけに恐る恐る目を開くと、零一が少し驚いた表情で珊瑚を見ていた。珊瑚は慌てて頭を下げる。
「すみません!お邪魔するつもりはなかったんですけど……。」
「……なんだ?」
「はい……あの、音楽室の戸締りを……。」
言葉はいつも通りなのだが、いつにない穏やかな調子の零一の声に励まされて顔を上げてそう言いかけると、零一は少し思案顔になって窓の外へと視線を向けた。
「……もう、そんな時間か……。」
なんだかいつもと様子が違う零一に調子が狂いっぱなしだ。珊瑚は思い切って声を掛けてみた。
「……あの……。」
「どうした?」
「すごくきれいな演奏でした。」
そんな単純な感想しか言えない自分がすごく悔しい。だが、
「……そうか、ありがとう。」
零一は珊瑚に視線を戻すと優しい笑みを浮かべてそう言った。珊瑚はその笑みに赤くなりながら、何かを言わなければとさらに口を開く。
「あの……。」
「戸締りは私がしておく。早く帰りなさい。……もう遅い。」
「はい……失礼します。」
少し照れたような笑みでそういう零一に、珊瑚は頭を下げると音楽室のドアをきっちり閉めてそのままもたれた。零一がまた弾き始めたようで、優しい音色が背中越しに響いてくる。
(氷室先生って、あんなに優しく演奏するんだな……。)
そうやって少しの間、珊瑚は零一が弾くピアノの音色に包まれていたのだった。

リストの『ため息』。今日、零一が弾いていた曲だ。珊瑚は帰宅後、早速自分が持っているCDの中からそれを探し当てるとヘッドフォンをして再生した。目を閉じてその音に身を預けるとあの時の零一の優しい笑みも一緒に浮かんでくる。珊瑚はひたすらリピートをかけると、その笑顔の余韻に浸るのだった。

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