珊瑚と和奏は連れ立って森林公園への道のりを歩いていた。零一の課外授業に参加するためである。課外授業ということで制服を着用しているが、休日にこの格好はさすがに目立っている。あちこちからちらちらと視線を寄せられるのに、課外授業初参加の和奏は少しうんざりしてきた。
「なんだかちょっと恥ずかしいよね…。」
そう言って落ち着かな気に自分の制服を引っ張ると、珊瑚も苦笑しながら同意する。
「うん、はば学の制服、可愛いんだけど、やっぱり休日にこの格好はねー。」
足早に集合場所である公園入口前に着いたのは、指定時間の10分前だった。当然、零一はすでに到着している。珊瑚本人が確かめたわけではないが、30分前には零一が確実に来ているらしい。対して生徒の数はまだまばらだった。
「おはようございます、氷室先生。」
「おはようございます。本日は無理なお願いを聞いて頂いてありがとうございます。」
珊瑚と和奏が零一に挨拶をすると、零一は微笑して答えた。
「おはよう。ん?君が如月だな?」
「はい。今日はよろしくお願い致します。」
和奏がもう一度ぺこりと頭を下げると、零一は微笑を絶やさずに続けた。
「私は意欲のあるものは大歓迎だ。今後も興味があればいつでも参加しなさい。」
「はい。ありがとうございます。」
和奏も零一に笑みを向ける。珊瑚はなんだか胸の奥がチクッとしたような気がしたが、次の瞬間にはもう忘れていた。到着の旨を告げた後はさほど待つこともなく、続々と生徒が集まりだした。
「全員揃(そろ)ったようだな。それでは、出発する。」
時間になり零一が声を上げた。和奏以外は全員零一の担任クラスであるA組の生徒だ。隣のクラスなので何人か顔見知りはいるが、和奏は少し緊張して珊瑚の隣に立っていた。
「それでは館内に入場する。出席番号順に一列に並びなさい。」
零一の言葉に全員が黙って列を作る。
「如月。君は海藤の後ろに並ぶように。」
「わかりました。」
珊瑚の次に並んでいた生徒に会釈して和奏が列に並ぶのを確認すると零一は一つ頷(うなず)き、彼の合図に従って整列した生徒達が順次植物園の中に入っていった。
「これで園内を一周したことになる。諸君、感想を聞かせてもらおう。それでは……。」
前回同様生徒1人1人に感想を聞いていく零一に、珊瑚はまたいろいろと思ったことを頭の中に並べていく。和奏も神妙な顔で他の生徒の感想に耳を傾けていた。
「海藤。」
「はい、熱帯の植物って不思議な形ですね。日本ではあまり見かけないものが多い気がしました。」
「そうだ。熱帯の植物は種の存続を多様性にたくしてきた。観察のポイントだ。」
零一が満足そうに頷(うなず)いている。珊瑚はよしっ!と心の中でガッツポーズを作っていた。零一が例の名簿に何か書き留めた後、和奏に視線を移した。
「次、如月。」
「はい。花はきれいなだけじゃないんだと思いました。そこに惹(ひ)きつけられる自分を考えると、虫や鳥たちはもっと惹(ひ)きつけられるものがあるのではないかと感じました。」
和奏の思わぬ感想に珊瑚が和奏に目を向ける。和奏の表情は真剣そのものだ。そして、零一の顔を見たときに珊瑚はまた胸の奥がチクッとした。今度の胸の痛みにはさすがに気が付き、そんな自分に少し動揺した。
「良い点に気が付いた。自然が生み出す花弁の色や形には合理的な根拠が存在する。」
珊瑚のとき以上に笑みを湛(たた)え、満足そうに見える零一の姿。和奏は零一の中でかなり注目している生徒の1人なのかもしれないと、今更ながら当たり前のことに気が付いた。
(なんてったって、編入してすぐの期末テストで50位以内に入ったんだもんね…。)
珊瑚の時以上に何かを書き留めている様に感じる零一を見ながら、珊瑚は落ち込んでいく自分を止めることが出来なかった。和奏はそんな珊瑚の様子に気が付いたが、今は課外授業の真っ最中だ。この場で私語をすることは出来ないと開きかけた口を噤(つぐ)んで、じっと終わるのを待っていた。
「今日の課外授業参考になりました。」
「今日は本当にありがとうございました。」
「よろしい。君達の学習態度は感心に値する。次回もまた参加するように。」
「よろしくお願いします。」
零一に挨拶を済ませると2人で連れ立って帰路に就いた。しかし、珊瑚はどこか上の空だ。原因はあの感想を述べた時だろうと思い、和奏は内心ため息をついていた。
(困ったな… こんなことになるなら来ない方が良かったかしら…?)
「……ねぇ、さぁちゃん?」
和奏は遠慮がちに珊瑚に声を掛ける。珊瑚は少しびっくりしたような顔で和奏を見て、笑みを繕った。
「な、なぁに?わぁちゃん。」
「……わたしに嫉妬(しっと)するのは止めてね?」
「へ!?」
「さぁちゃん気付いてると思ってたんだけど… わたしが今気になってる人。違ったっけ?」
和奏の的確な言葉に珊瑚は苦笑して頷(うなず)いた。
「……うん、わかってる。」
「だよね?だからこないだ、追求したんだよね?お昼休みに。」
珪のことを言っているのであろう和奏の言葉に、珊瑚は頷(うなず)きながらも少し驚いた。
「て、わぁちゃん、自分のコト、気付いてたんだ?」
「そりゃそうだよ、自分のコトだもん。」
「そうだったんだ… 私はてっきり…。」
「昔みたいに気が付いてないと思ってた?他人(ひと)のことばかり見ていて。」
くすくすと笑いながら和奏がいたずらっぽくそういうと、珊瑚は素直に頷(うなず)いた。
「うん。だって自分のコトってなかなか気付かないモノでしょう?」
「そうだね。そういうとこ、さぁちゃんはちっとも変わってない。」
和奏はそう言って優しく微笑んだ。
「で。……自覚、した?」
「うん……。」
その和奏の笑みにつられたのか正直に頷(うなず)いた珊瑚に和奏はさらに笑みを深くした。
「さぁちゃんが自覚したんなら、わたしも認めるわ、葉月くんのこと。」
はっきりとそう口にした和奏に珊瑚が驚いて視線を向けると、和奏は頬(ほほ)を染め照れくさそうに笑っていた。
「今まで黙っててゴメンね。でも、まだ変に意識したくなかったんだ。葉月くんってあんな人だし。ただ、それだけ。」
和奏の優しい笑顔に珊瑚は少し癒(いや)された様な気がした。和奏は昔と違ってちゃんと自分で受け止めて前へ進んでいるのだ。それに比べて自分は…。
「まだまだこれから、だよ。お互い、頑張ろうね!」
「そうだね。」
和奏の言葉に救われて珊瑚の表情にも笑みが戻った。相手は教師でクラス担任だ。しかも、人一倍常識に拘(こだわ)りそうだし、大体簡単に一生徒の自分に心を開いてくれるとも思えない。とりあえずは和奏のように注目されるに値する生徒にならなくては。珊瑚は今まで以上に勉強にもクラブにも力を入れることを決心した。
「いらっしゃいませー!」
火曜日の喫茶ALUCARDでは今日も和奏と珊瑚が2人で店を切り盛りしていた。夏休み中にコーヒーや紅茶の淹(い)れ方をマスターし、9月に入ってから2人で任されるようになったのだ。ALUCARDは常連客が多いため、味にはうるさいが店長の人柄からか気さくな人が多い。和奏も珊瑚もこの夏の間にすっかり店に馴染(なじ)んでいた。
「ご注文はいつもので?」
火曜日に必ず現れカウンター席の真ん中に座る初老の男性に、珊瑚が声をかけると彼は嬉しそうに一つ頷(うなず)いた。
「少々お待ちくださいませ。」
珊瑚はすぐさま彼のためにエスプレッソを作る。そして、小さなクッキーを添えることも忘れない。満足な出来に笑みをのせて、エスプレッソの入ったコーヒーカップを彼の前に置いた。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ。」
彼はまた一つ頷(うなず)いてそっと一口エスプレッソを啜(すす)る。そして添えられたクッキーを美味(おい)しそうに味わって食べている姿に、珊瑚は自分の亡き祖父の面影を見ていた。
(…うちのお祖父(じい)ちゃんは、番茶にせんべい、だったけどね。)
そうして一人、くすくすと笑みをこぼしながら洗い終わったお皿を拭(ふ)いていると、入口のベルがカランカランと小気味よい音を立てた。
「ただいま〜!」
和奏がデリバリーから帰ってきたのだ。そして、カウンター席のエスプレッソの彼の姿に気付くと、笑顔で挨拶(あいさつ)した。
「いらっしゃいませ。」
また彼は笑みを乗せて一つ頷(うなず)いた。お客様には必ず1人1人挨拶(あいさつ)をすること、とは店長裕司の矜持(きんじ)の一つであり、何よりもアルバイト達全員に徹底させていることの一つである。基本は大らかな放任主義だが押さえるべき所はきちんと押さえているので、バイトが入れ替わっても店の雰囲気は損なわれることなく、居心地のいい場所として客に人気のある部分でもあった。
「今日はね、ポスターの撮影だったよ〜。」
そんな女子学生らしい話題で盛り上がっている姿を見ても、眉を寄せたりする客は一人もいない。むしろ、このエスプレッソの男性などはそう言った話題に花を咲かせている若い店員の姿を、目を細めて見ていることが多かった。珊瑚が亡き祖父の面影を見ている様に、男性も普段は会えない孫の姿でも思い出しているのかもしれない。もちろん、話に夢中になりすぎることはなく、ちゃんと客への気配り、目配りが行き届いているからこそである。
「へぇー。何のポスターだったの?」
「それがね…。」
珊瑚に対して珪への気持ちを認めてから、和奏は珪との間に起こったことを色々報告してくれる様になった。今日は何回目が合っただとか、微笑みかけてくれただとかそういった些細(ささい)なことの方が圧倒的に多かったが。そして、アルバイトの日には隣の撮影所へのデリバリーに行くたびに、珪の仕事の様子を珊瑚に説明してくれる。そういったときの和奏の表情はとても生き生きしていて見ていて微笑ましくなる。“女の子は恋をすると可愛くなる”を正に具現化している様な雰囲気に、自分とは違って等身大の恋をしているんだなと実感させられて最近すごく羨(うらや)ましく思ったりもする。
「さぁちゃん?どうしたの?」
どこか沈んだ様子の珊瑚に和奏が心配そうに尋ねる。珊瑚は考えても仕方がないこと、と首を振って和奏に笑みを見せた。
「ううん、大丈夫。なんでもないよ。」
「……そう?」
「うん。ほら!お客さま!」
席を立つ客を見て慌ててレジへ向かう珊瑚。和奏はその様子をじっと見ていたが、ふっと表情を和らげた。
(こればっかりはわたしがどうこう出来ないしね。さぁちゃん、頑張って。)
2人が恋を自覚しても前途は多難。それぞれの思いを余所(よそ)に時は移ろっていくのだった。