やすらぎ

夏休みが始まったと同時に、和奏のアルバイトも始まった。学園近くにある明るい開放的な店とは違って、ゆったりと落ち着いた感じの喫茶店ALUCARDだ。アルバイト初日の今日、緊張した面もちで入口の前に立っていた。
「……ココね。学園近くの茶店(さてん)もいいけど、落ち着いていて雰囲気良さそう。」
そして、一つ深呼吸をするとドアノブに手を掛けた。
「いらっしゃいませ。」
明るい声が出迎えてくれる。和奏は表情を引き締めるとぺこりと頭を下げて自己紹介した。
「今日から新しく入りました、如月 和奏です。」
「あぁ、こないだ電話をくれた…どうぞ。こちらへ入って。」
「はい。」
「山ちゃん、ちょっと頼むね。」
「りょーかい。」
穏やかな笑みをたたえた男性が店の中にいたアルバイト風の男の子にそう声を掛けた後、従業員用の入口を押し上げ和奏を中へと促した。そのまま和奏は控え室の方へ通されて、一通りの注意と制服を渡された。
「はい、これが制服ね。ロッカーはココ。小さな店だからね、『更衣室』なんてスペースは作れなかったんだ。だから、着替えるときは鍵を閉めて着替えてくれて良い。」
「はい、わかりました。」
「それから電話でも話したとおり、君には毎週火曜と木曜に入ってもらおうと思うんだけど、大丈夫かな?」
シフト表を見ながらその男性 ─── マスターの大星 裕司が和奏に確認する。
「はい、問題ありません。大丈夫です。」
「そうか、良かった。それじゃあ、さっそく着替えて表に出てきてくれるかな?」
そう言って控え室を出ていった。和奏は言われたとおりに鍵を閉め、早速着替えて自分に宛(あてが)われたロッカーに鞄を入れた。ロッカーに着いていた鍵を閉めてポケットに滑り込ませ、すぐにカウンターに出る。先ほどの男の子がポットにコーヒーを注いでいた。
「じゃあ、さっそくで悪いんだけど……。」
と裕司が銀のトレイにコーヒーカップと男の子がコーヒーを注いでいたポットを乗せて和奏に手渡す。
「となりの撮影所に、このコーヒー届けてくれる?」
「はい、行ってきま〜す!!」
和奏は元気良く応えると、こぼさないように注意しながら店を後にした。

(え〜と、Aスタジオは……。)
外から見た感じはこじんまりしたビルのようだったが、中は少し入り組んでいた。受付の女性に説明を受けて届け先のスタジオを探す。
(あっ、あそこだ。ドアが開いてるから入っても大丈夫だよね?)
そっと身体を滑り込ませると、和奏は慣れない笑顔で声を張り上げた。
「お待たせしました!喫茶ALUCARDです。ご注文の品をお届けに参りました!!」
「おっ?新人さんだね、聞いてるよ。こっちへ持ってきてくれる?」
「はいっ。」
すぐに愛想のいい声がかけられて、和奏は内心ほっとしながらそちらへ向かった。すると…。
「如月。」
「あれ?葉月くん!?」
そこにはヘアメイクをしてもらっている珪がいた。
「じゃあ、続きはコーヒー飲んでからで良いわ。」
そう言ってスタイリストが和奏のトレイからコーヒーカップを一つ手にとって席を外す。珪は和奏の方に向き直った。
「あ、そうか、ここで撮影?はい、コーヒー。」
スタイリストが席を外すのを見届けてから和奏は言葉を続けた。珪はコーヒーカップを受け取ると一口飲んだ。
「まあ……。それより、茶店(さてん)に新しく入ったかわいいコって、もしかして……。」
「あ、わたしのことかも!」
可愛いかどうかは別として、新しく入ったのは自分だけのはずだ。和奏はそう思って自分を指した。珪はコップに口を付けながら和奏を見ると、こくりと一口飲んだ。
「……そうか。まあ、がんばれ。」
「うん。」
少しすると先ほど声をかけてくれたスタッフの1人が顔を出した。
「ああ、君。ポットとカップはトレイごとそこにおいといてくれて良いよ。みんな休憩時間まちまちだからさ。」
「はい、わかりました。」
「しばらくしたらまた取りに来てね。」
言われたとおりにトレイを置き、和奏は入口で振り返ると笑顔で言った。
「これからも、ごひいきに!」

ライン

その頃、珊瑚は久しぶりにメールチェックをして、件(くだん)の英語メールの差出人から謝罪のメールが届いていることに気が付いた。
「あ、やっぱり間違いメールだったんだ。へー…一文字違うだけ、なんてすごい偶然だなぁ。」
どうやらメールを送るはずだった家族のメールアドレスと、珊瑚のメールアドレスが一文字違いだったので間違えたのらしい。ちょっと感心し、どこかたどたどしい日本語に疑問を抱きながら読み進めると、
「……なるほど。アメリカから1人で留学してきたんだ、この子。すごいなぁ…。」
前に辞書と首っ引きで英語での返答メールを書いていた珊瑚は、その時のことを思い出し思わず笑ってしまった。
「この子も辞書を片手に日本語でメール書いたのかな?それにしても…。」
家族と離れて1人で慣れない国で生活している… その心細さは考えつかないほど大変なものだろうと思う。転勤族だった父のせいであちこちの学校を転々とし、友達が誰もいなくなった教室で寂しかった経験がある珊瑚にはその心細さが充分察せられた。
「うん、これも、何かの縁よね!力になってあげよう!!」
珊瑚はそう決めると、出来るだけわかりやすい日本語でメールを書いた。
「まずは自己紹介からよね。私は高校1年の海藤 珊瑚といいます。読み方は“かいどう さんご”です。珊瑚は英語で言うと“coral”になります……。」
一通り書き終えると難しそうな漢字には一々読み仮名をつける丁寧さでもってチェックを入れ、返事を出した。

「私もわぁちゃんと同じところでバイトしようかなぁ…。」
数日後、和奏から店の様子を聞いた珊瑚は今し方自分にも届いたメールに書いてある喫茶ALUCARDの電話番号を眺めていた。
「それにしてもすごい偶然だね。隣のスタジオで葉月が撮影してたなんて。」
「うん、ホントにびっくりしたんだから…。でもやっぱり葉月くん、かっこよかったよ。」
「当たり前でしょ。モデルなんだから。」
「……そうなんだけど。」
笑いながら和奏が同意する。最近、少し可愛くなった気がするのは気のせいなのだろうか?
「それにね、時々休憩時間にうちのお店にコーヒーを飲みに来てくれることもあるんだよ♪」
「へぇ〜…葉月行きつけの茶店(さてん)ってところなんだね。」
「うん、そうなのかも。お客様も常連さんが多いせいか、葉月くんがお店に来ても騒ぐ人は誰もいないし。」
店の様子を思い出しながら和奏がそう付け足す。
「で、まだバイトの受付、してるんだっけ?」
和奏の様子に気になりながらも今しばらく静観することにする。和奏自身が気付いてない気持ちをこちらからつついたところで意味をなさないだろうからと、どこまでも和奏に対しては過保護な珊瑚だった。その代わりに、今一番重要なことを口にした。
「うん、後1人ぐらいいると助かるんだけどなぁって店長は言ってたけど?」
「よし!じゃぁ、電話してみよう!」
言うが早いか珊瑚はすぐさまダイアルをプッシュした。
「はい、“ALUCARD”です。」
「アルバイト募集の広告を見て、電話したんですけど……。」
そう言いながら、隣で和奏が自分を指さしてるのを目にして、
「それと、友達の紹介で…。」
と付け加えた。すると電話の向こうで何かを確認しながら、
「友達?誰かなぁ?」
と尋ねる声がした。別の声で『いらっしゃいませー』と言ってるのが聞こえる。
「あの、はばたき学園の如月 和奏さんなんですけど。」
「あぁ、きさちゃんね。じゃあ、次の火曜日に、きさちゃ…っと如月くんと一緒に来てもらえるかな?」
「はい、よろしくお願いします。」
「じゃ、詳しいことはその時に。よろしく頼むよ。」
そう言って電話は切れた。なんだかあっさりと話がまとまって拍子抜けする。
「大丈夫だったみたいね。」
和奏が笑顔で確認する。頷(うなず)いた後珊瑚は首を捻(ひね)ってこたえた。
「面接もなしにいきなり決まるもの?」
「店長は、声の調子だけで決めちゃうみたいよ?それに、わたしの紹介ってのも大きいかもね。」
「それにしても、きさちゃんって…。」
「あぁ、あの人、みんな勝手なあだ名を付けて呼ぶんだよ。さぁちゃんだったら多分、“かいちゃん”だろうね。」
これで一緒にバイトできるねぇと嬉しそうな和奏に珊瑚もつられて笑みを浮かべた。

ライン



Copyright © TEBE All Rights Reserved.