あれから色が屋上へ来ることはなかった。内心ほっとしながら和奏は黙々と筆を動かしている。結局瑞希には噂の色サマと会った話はしたものの、この屋上で、ましてや自分の絵を褒められたという話は一切しなかった。プライドの高いお嬢様の瑞希のこと、余計なトラブルになりかねないと思ったのだ。
「あれから三原くんが来ることもないし、言わなくて正解だよね。」
今日の分のノルマを終えると、和奏は荷物を片づけて階段を降りていった。
(あ、葉月くんだ。)
靴を履き替えて校舎を出ると、珪が校門から出るところだった。
(今日は乗ってくれるかな?)
今のところ三回誘ったものの、喫茶店まで寄り道してくれたのはたった一回だけ。喫茶店に寄るのでなければ割と誘いに乗ってくれるのだが、どうやら店の中での他人(ひと)の視線が気になるようなのである。でも、今日の和奏にはなんとなく予感があった。
「葉月くん!今、帰り?」
「……ああ。」
「ねえ、お茶して帰ろうよ。」
「……ああ。べつにいいけど……。」
少し逡巡したものの、珪はあっさりと頷(うなず)いた。和奏はにっこり笑って、
「よかった。それじゃ、行こう。」
と珪と並んで歩き出した。
いつも珊瑚達と寄り道する学園近くの喫茶店。だから、はばたき学園の生徒達がたくさんやってくる。和奏は珪と来るときには出来るだけ目立たない、一番奥の窓際の席に座るようにしていた。ここだと見つかりにくいし、入口から死角にもなっているので、他人(ひと)に不躾(ぶしつけ)な視線を向けられるのが嫌いな珪でもゆっくり話せるのだ。窓からはここの店のオーナーが丹誠込めて育てているらしい小さな庭も見える。注文した品がそれぞれ来たところで、和奏は少しドキドキしながら切り出した。
「ねえ、葉月くん。」
「なんだ?」
こうやって少しずつ少しずつ珪の好みのものを聞き出そうと頑張っている。本来ならいるはずの珪の事を良く知る仲の良い友達というのが珪にはいなくて、本人から直接聞かないことにはさっぱり知りようがないのだ。初めて喫茶店での寄り道をしたときには、好きなテレビ番組の話をした。結果は…ある意味珪らしく、半年前からテレビは壊れたままで特に見ないとのことだった。
「葉月くんってさ……。音楽はどういうのが好き?」
「音楽…… バイオリンの曲、聴いてる。」
少し考えてからそう口にする珪。バイオリンという言葉が珪の口から出たことに違和感は感じなかったもののやはり少し驚いた。
「なんか高尚だね……。」
「そうか?習ってたんだ、昔。それだけ……。」
和奏の素直な感想に気を良くしたのか、珪は微かに笑みを見せてそう答えた。最近では、時折こういった笑みを見せてくれるようになった。和奏はそのわかるかわからないかの微かな笑みを見るのが好きになっていた。その微笑みを見るために頑張って声をかけてるようなものだ。
「じゃあさ、趣味ってやっぱりバイオリン?」
勢い込んで尋ねてみた応えは呆気(あっけ)ないものだった。
「いや……昼寝。」
「………………。」
まさかそう来るとは思わなかったので思わず絶句してしまう。珪はそんな和奏を気にもとめずにコーヒーを一口飲んだ。
「もうちょっと、こう…… 我を忘れて熱中するようなのは?」
気を取り直して質問を変えてみると、また少し考えた後、
「……ジグソーパズル。」
と答えてくれた。和奏は嬉しくなって思わず、
「あ!なんか、らしいね。楽しい?」
と聞いてみた。珪は先ほどとは違った笑みを見せて、
「……どうだろう、頭の中、空っぽになっていい。」
「そっかぁ…。」
なんだか穏やかな気持ちでいっぱいになった和奏は自分の紅茶を手に取った。
その頃、珊瑚は帰りが一緒になった奈津実と、同じ喫茶店へ向かっていた。
「アーァ、おなかペコペコ〜。」
「藤井ちゃんってばいっつもそんなこと言ってる。」
「だって、チア部ってこれでも結構ハードなんだよ?」
「ハイハイ。知ってますよ。」
「ココっておなかに溜まるようなメニューあったっけな〜?」
入口のドアを開けて中へ入りいつもの席へ行こうとしたら、奈津実に腕を引っ張られた。
「なに?どうしたの?」
「珊瑚、アレ、和奏と葉月じゃない?」
「え?どれどれ?」
そうして奈津実が指した方にはまるで恋人同士のように微笑み合っている2人が見えた。入口からは死角になっているあの席にいる2人をよくもまぁ目敏(めざと)く見付けたものだ。珊瑚が絶句していると、奈津実が嬉しそうに、
「ね?ね?あっちの席にしない?ちょっと狭そうだけど、2人からは見えないよ。」
と、レジを挟んで反対側の窓際の席を指さした。絶句状態から立ち直った珊瑚は首を振ると逆に奈津実の腕を引っ張った。
「……藤井ちゃん。」
「ん?」
「やめとこ。」
途端に奈津実が眉を寄せる。
「どうしてよー!? こんなチャンス滅多にないよ?あの、葉月が、あの、和奏と一緒だなんて!」
「だからやめとこってば。ほら、今日はウィニングに変更。その方があんたも空腹が満たされるでしょ。」
「ちょ、ちょ、ちょっとー!」
「何か文句、ある?」
振り返って珊瑚に睨(にら)まれると、
「……何もありません。」
とうなだれる奈津実。と、すぐに元に戻って
「珊瑚ってばホントに和奏のことになると必要以上に用心深くなるんだから…。」
と口を尖らせる。珊瑚はちょっと俯いた後、また視線を奈津実に戻して念押しをした。
「藤井ちゃん。」
「何?」
「それは自覚してるよ。だけど、今日私たちがあの2人を見たことも一切口外しないでね。」
「ハァ……りょーかい。」
「その代わり、ハンバーガー、おごってあげるから。」
苦笑しながら珊瑚がそう言い、また奈津実もそれ以上は何も言わずに従った。
奈津実がバイトをしているウィニングバーガーで約束通りセットメニューをおごってやり、一頻(ひとしき)り学園内の噂話で盛り上がった。微妙に和奏の話を避けていたのは、奈津実なりの気遣いだったのかもしれない。奈津実と別れた後、珊瑚は先ほど見た和奏の笑顔を思い出しながら歩いていた。
「わぁちゃんのあの笑顔、久しぶりに見たな…。」
穏やかに相手を包み込むような、こちらまで幸せになるようなあの笑顔 ─ ふふっと笑った後、ふと思いついて急に顔を顰(しか)める。
「でもきっと、本人に自覚ないよねぇ…。」
はぁ…とため息をついてから奈津実の言葉を思い出す。確かに自分は和奏に対して過保護だ。同級生なのに姉のように守ってあげてる気になっている。和奏は何も言わないが、今日のように必要以上のことをするのは多分、間違っているのだろう。まどかの時にも思い直したことだが、和奏は見かけに寄らずしっかりしているのだ。本当はきっと、珊瑚以上に。
(でも…。)
とまた先ほどの和奏の笑顔を思い出す。
(あの笑顔を見せるのって本気の時だけ、なんだよね…。)
それがわかっているから変に勘ぐったり茶化したりしたくないのだ。本人に自覚がないのがわかっているから余計にそう思う。ちゃんと本人が自覚して、それから囃(はや)し立てたりしていくのなら何も珊瑚にも依存はないのである。
(まぁ、藤井ちゃんも巻き込んでそれとなく自覚させてあげないことには始まらないよね。)
そう結論づけると我が家へと入っていった。
かくいう珊瑚も自身の淡い恋心は自覚していないのであった。