「ふぅ… すっかり遅くなっちゃった…。」
この頃珊瑚はどっぷりフルート漬けの毎日になっていた。勉強もしなければ… とは思うのだが如何(いかん)せん、もしもフルート以外の楽器に回されたら… と気が気でないのだ。勉強は初めが肝心だとはよくよくわかっているのだが。
「とりあえず、この週末までの辛抱だし。終わったらわぁちゃんに教えてもらおう。」
と、ひとまず勉強のことは頭から追い出して、ヘッドフォンで課題曲を聴きながら帰路に就いていた。
「おっ!珊瑚ちゃん!」
大通りの交差点に差し掛かったところで聞き慣れた声がした。そして、先日の和奏との電話の内容を思い出し、むっとした表情でその声の方を見ると案の定、まどかがひらひらと手を振りながらガソリンスタンドの一角にいた。
「……って、ご挨拶やな〜。なんや、その顔は?」
「べっつにぃ。姫条こそ、仕事中に女の子に声掛けてて大丈夫な訳?」
「おぅ!もうすぐ上がりやねん。しっかし、珊瑚ちゃんちょっと帰り遅すぎるんとちゃうか?」
腕時計の時間を確認して首を傾(かし)げるまどかに、珊瑚は思わず苦笑した。
「あぁ、部活してたから。」
「部活〜?珊瑚ちゃん、部活やってるんか〜。何の部活や?」
「……吹奏楽。」
意味深な笑みで告げられた珊瑚の言葉に絶句するまどか。想像通りの表情を得た珊瑚は嬉しそうに破顔した。
「あっはっはっは… 。姫条、何?その顔ー。」
「せやかて、吹奏楽ってあれちゃうん?顧問…。」
「そ、氷室先生だよ。」
「………ようやってんな〜。…あ、そうや。ちょっとだけ時間あるか?」
「え?あるにはあるけど…今、姫条自身が遅すぎるって言ったんじゃないの?」
「せやからや。ちょっとだけ待ってて。着替えてくるから送ったるわ。」
「え?別に良いよー、そんなに遠い訳じゃないし。」
「あかんあかん。ここで女の子1人で帰してもうたやて知れたらオレの名折れや。」
「そんな大げさな… でも、ありがと。じゃぁ、待ってる。」
「おぅ!すぐ着替えてくるからな〜!」
ダッシュで事務所へ駆けていくまどかを見送るとヘッドフォンを外して鞄に入れ、スタンドの邪魔にならないところで待つことにした。
「お疲れさまっした〜。ほなお先〜。」
元気な声が聞こえたと思って顔を上げたところで、まどかがこちらへ向かって戻ってきた。
「お待たせ。ほないこか。」
「うん。」
まどかは確かに女ったらしで有名だったりするが、その分本当に女性に対しての気配りは細やかである。例えばこんな風に何でもない道を歩くのでさえ、絶対に女の子に車道側を歩かせない。必ず自分が危ない車道側を歩くのだ。一度理由を聞いてみたら、ただ一言
「なんや、落ち着かへんのや。」
と照れくさそうに言っていた。今もその言葉に違(たが)わず、しっかり車道側を歩いてるまどかになんだか珊瑚は笑みを浮かべた。
「ん?どないしたん?えらい嬉しそうやん?実はオレと帰れるの、めっちゃ喜んでるとか?」
「ちーがーいーまーす!自意識過剰もいい加減にしないと嫌われるよ?」
「そんな怖いこといわんとって〜や。ジョーダンやんか。」
情けなさそうな顔で落ち込むまどか。ホントに彼といるとちっとも飽きない。珊瑚は少し表情を引き締めると気になっていたことを尋ねてみた。
「そう言えばさ、もうわぁちゃん… 和奏に声かけたってホント?」
一瞬きょとんとした表情の後、思い出したのか嬉しそうな笑顔でまどかは頷(うなず)いた。
「そうか、わーちゃんゆうんか〜。彼女に似合うて可愛いあだ名やな〜。」
「ちょっと!私が聞いてるのはそんなことじゃないでしょ!」
「あぁ、昨日たまたま教室で1人でおるとこ見かけたから声かけたけど、なんやようなかったか?」
「悪くはないけど…。わぁちゃん、まだ慣れないんだから変なちょっかい出さないでよね。」
「自分… オレのこと誤解してへん?別に取って食うたりせぇへんで?」
「わかってるけど!姫条にとっては社交辞令でも、わぁちゃんにとってはマジだったりしたら困るでしょ?」
「自分も心配性やなぁ〜…。オレかて誰彼構わずとちゃうでぇ?ちゃんと本命は分けたあるって。…まだおらんけど。」
「姫条が見かけよりずっと純粋なのは知ってるけどさ。ことわぁちゃんに関してだけは心配せずにいられないのよ。」
「同級生やのにねーちゃんみたいやな〜。」
「しょうがないでしょ、性分なんだから。」
自分でも余計なお世話だろうことはわかっているが、和奏に対してだけはお節介をやめられない。こんなことをしなくても、和奏はちゃんと相手の本質を見抜く力もあるし、簡単に騙されたりしないのは珊瑚自身が一番よく知ってるのだ。
「わぁちゃんと2人っきりのデートは当面禁止、だからね。」
「そんな殺生な〜 …自分に関係ないやんか…。」
「どうしても行きたいなら私も混ぜて3人で行くこと。いいわね?」
「……なんやかんや言うて、自分がオレとデートしたいんちゃうん?」
「姫条……。」
「わっわっ!ジョーダンやて!ほんまに!わかった、わかったから…。」
ホールドアップしてみせるまどかに珊瑚はほっと胸を撫で下ろしながら、一言付け加えた。
「5月4日の土曜日、公園入り口で待ってるから。」
「へ?」
「デート、しないの?」
「行く行く!喜んでお供します〜。」
「忘れないでね。それじゃ、私こっちだから。」
「あぁ、もう分かれ道か。なんやつれないな〜。」
「送ってくれてありがと。ここからはすぐだから、心配ないわ。」
「ま、自分がそう言うんやったら大丈夫なんやろ。お疲れ。気ぃつけてな。」
手を振りながら珊瑚が歩き出すのを待つまどか。こんなところも律儀だ。珊瑚は少し歩いてから、一度振り返って手を振ると後は真っ直ぐ家へと向かった。
「えぇ〜!? そんな、さぁちゃん、急に困るよ〜…。」
その日の夜、珊瑚は早速和奏へデートのお誘いに電話を掛けた。勝手に決めてしまったのだが、和奏は断らないだろうと思っていたのだ。
「えぇ?わぁちゃん、なんか予定あったの?」
「その日には何もないけど… 手芸部の課題、ゴールデンウィーク明けに提出なんだよ?」
「あぁ… そうだったんだ… ごめん…。」
─やっぱり確認せずに約束してしまうのはまずかったか…─ 珊瑚が少し反省していると、電話の向こうで和奏が苦笑していた。
「さぁちゃんもしょうがないな〜。いいよ、そんなに難しい課題じゃないし、ゴールデンウィーク入るまでには終わらせるつもりだったから。」
「ホント?よかったー… 姫条になんて言い訳しようか悩んじゃったよ…。」
「でも、もうこれっきりだからね?勝手に約束しないでね?」
「はい、反省してます…。」
「じゃぁね、前日の3日にお買い物に付き合って?新しいお洋服欲しいんだ♪」
「ん、もちろん!わぁちゃん好みの可愛いお店に連れてったげる♪」
「ありがと、さぁちゃん。それじゃ、またね。」
「うん、またね。おやすみー。」
「お休みなさい。」
電話を切った後、ふーっとため息を一つ。
「わぁちゃんも色々予定あるもんね… 幼稚園の時のようにしちゃいけないよね…。」
いけないいけない、と自分を窘(たしな)めつつ一つ肩の荷が降りた珊瑚は改めて明後日のための練習に励んだ。
「失礼します。海藤 珊瑚です。」
「…よろしい。かけなさい。」
全体練習があった翌日。一年生部員1人1人が呼ばれて零一より担当楽器が言い渡されていた。出来る限りのことはやったはずだが、やはり緊張は隠せない。幾分、強ばった面もちで珊瑚は零一の前の椅子に座った。
「今日は君の担当楽器を決定してきた。」
「はい。で、私の担当楽器って何ですか?」
「我が吹奏楽部は、君をフルート担当に任命する。」
「フルート?やったー、嬉しい!先生、ありがとうございます!」
無事、フルート担当の言葉を聞き、途端に気が抜け破顔する珊瑚に零一は眉を寄せた。
「浮かれている場合ではない。」
「え、どうしてですか?」
「今まで習っていたならわかっているはずだが、フルートは木管楽器の中でも大変難易度の高い楽器だ。」
「う、先生にそう言われると、ものすごく難しそうな気がしてきたな。」
「マウスピースと口元の角度、息の速度調節……他にも難関が多くある。」
(始めた頃はそれがわからなくて苦労したんだよね。ただ吹けばいいってものだと思ってたから。)
身に覚えのある珊瑚は表情を引き締めて零一の言葉に耳を傾ける。
「しかもフルートは音が高いため、失敗すればごまかしがきかない。」
(それにしても先生って、さりげなくプレッシャーをかけてくるなあ。)
わかっていることだが零一の口から改めてそう言われるとなんだかとてつもなく難しいものに思えてくるのだ。固い表情のまま零一の言葉に耳を傾け続ける。
「だが、私はあえて君をフルート奏者に抜擢した。」
「え?どうしてですか?」
「以前に習っていたというのもあるが、君の体力、集中力、その他あらゆるデータを分析し、適材だと考えたからだ。」
「デ、データの分析ですか?なんだか大変そう。」
「一晩かけて検討した。……気が付いたら朝になっていた。」
「徹夜したんですか?私のためにそこまでしてくれるなんて。」
ある意味零一らしいとは思いながらも、思わずびっくりした表情をする珊瑚。零一はまた一段と厳しい表情で話し続けた。
「いいか。我が吹奏楽部は完全な調和(ハーモニー)を追求している。部員全員のデータを詳細に分析し、適切な楽器に振り分けるのは大切なことだ。」
「完全なハーモニー、ですか?」
ここら辺が零一を完璧主義と言わせる原因でもある。やるからには時間を惜しまず、納得がいくまで徹底的にやってしまうのだ。だが、生徒達に無理強いをしている、という訳でもないのは部員数の多さとその表情を見ればよくわかることだろう。
「そうだ。入部したからには死に物狂いで取り組みなさい。」
「もうこうなったらやるしかないです!ぜひ、よろしくお願いします!」
新たな決意を元にきっぱりとそう宣言する珊瑚に零一は満足そうな笑みを浮かべた。
「期待しているぞ。……それでは練習に入りなさい。」
「はーい。さーて、練習練習!」
目指していたフルート担当になり意気揚々と練習の輪に戻っていく珊瑚。こうして夢への第一歩を踏み出したのだった。