Prologue:旅立ちの時

その日、季節は春を迎え、優しく温かい風が頬を撫で、喜びの声を上げる鳥の鳴き声が聞こえていた。その光景とはうらはらに、小さな狩人達の村にあるこれまた小さな家の中で、早すぎる死を迎えようとしている若者が粗末だが清潔なベッドの上に身を横たえていた。側ではまだ年若い娘が甲斐甲斐しく世話を焼いている。
「兄(あに)さま…。」
「クランツ、そう悲しい顔をするものでないよ。すべては天の宿命(さだめ)なのだから。」
「でも…。」
辛そうに瞳を伏せる娘…クランツの頬へ床(とこ)から手を伸ばした若者は、軽く一つ息を吐くと優しい瞳を向けた。
「僕は君に出会えて本当に幸せだった。きっと僕の父も同じ気持ちだったのだろう。君は…あなたはまだ生きなければなりません。大切な父上様にお会いするために。」
「兄(あに)さま…セフィール!」
クランツは伸ばされた手を頬に当てたまま自分の手を重ね、輝く涙を一滴落とした。


平和で静かなこの村にも時々不穏な話が舞い込んでくるようになっていた。セフィールの父ゼストはその腕を買われ、王国付きの騎士団第三部隊の隊長として務めていたのだが、つい先日名誉の死を遂げたばかりだった。敬虔(けいけん)な緑の信者が多いここフルッフトバールの民であるセフィールは、ゼストが緑の化身の盾となって命を落としたことを知り、悲しみよりも誇りを持って都での葬儀に臨んだ。その方が父ゼストも喜ぶことを知っていたからだ。
だがしかし、父の死はやはり16の青年にはまだ荷が重く、日が経つにつれて寂しさが募っていた。騎士団の隊長という立場上、日頃から留守がちではあったが手紙は必ず二週間に一度届いていたし、二月(ふたつき)に一度は息子の様子を見に帰ってきてくれていたのだ。もう二度と届かない手紙と笑顔…やるせない思いが積もり積もった頃、セフィールは狩りの途中で見たことのない場所に足を踏み入れていた。
「……?ここは…どこだろう?」
追いかけていた兎(うさぎ)はいつの間にか姿を消し、辺りには薄い靄(もや)が立ち籠(こ)めていた。こういう時には無闇に歩き回ってはいけないという狩人の不文律も忘れ、どこか茫洋(ぼうよう)とした様子で歩を進めていくと急に目の前に槍の先が突きつけられた。
「……。どこから迷い込まれたか?」
「え?あ、はい…あの…狩りの途中で兎(うさぎ)を追いかけていたら…。」
「出自はどこか?」
「はい…緑の都フルッフトバールの西外れにある名も無き狩人の村でございます。」
父が騎士だったおかげでこういった時の対処法は心得ているセフィールだったが、やはり実際に槍先を突きつけられると多少の恐れは禁じ得ない。おどおどすると余計に怪しまれるものだと言われた父の言葉を思い出し、相手の目を真っ直ぐに見て震える声を何とか抑えて問いかけに答えていく。
「…いかがした?」
と第三の声が入りそちらに目を遣ってセフィールは初めて驚きに目を見開いた。
「はっ。この者がどうやら迷い込んでしまったようで。」
セフィールに突きつけている槍はそのままに騎士が答えると、その第三の人物はセフィールへと視線を転じ、軽く目を瞠(みは)った。
「その方は緑の民か?」
門番騎士との僅かなやりとりの間に、セフィールは見事なまでの礼でもってその場に膝をついていたのである。この礼が出来るのは緑の国フルッフトバールの民である証、また第三の人物が何者なのか理解した上での所作でもあった。
「恐れながらお答えいたします。いかにも私は緑の国フルッフトバールの民でございます。」
「名はなんという?」
「緑の都の西外れ、名も無き狩人の村のセフィールと申します。」
その答えに問うた方はもちろん、門番騎士も驚いて槍を降ろし、セフィールを見つめた。
「その方(ほう)、もしやゼスト殿の縁(ゆかり)の者か?」
門番騎士のその問いにセフィールは初めて表情を柔らかくして答えた。
「いかにも。緑の国フルッフトバール騎士団第三部隊隊長ゼストの一人息子でございます。」


奥へと進むに従って薄靄(もや)は晴れていき、ますます不思議な景色が広がっていた。目の前を小さな雲が浮かんでおり、空とも湖とも境のつかないその場所には大きな蓮の葉が道を造るように重なって地面とおぼしきところに敷き詰められている。先程割り込んだ第三の人物…緑の化身の長(おさ)であるラベンデルはセフィールを丁重に最奥の四阿へと迎え入れるとすぐにもてなしの支度を調えさせた。もちろん、実際にその姿を見たのは初めてとはいえ相手が緑の長(おさ)であることがわかっているセフィールはしごく恐縮し、同じ席に着くことをお断り申し上げたのだが、本人から是非にと請われればそれ以上辞退するのも難しい。不釣り合いな椅子に落ち着かな気に腰を下ろすと、セフィールはラベンデルの言葉を待った。
「さぁ、まずは寛がれよ。この茶は私の一番のお気に入りでね。セフィールにも気に入ってもらえると思うのだが。」
優しい笑顔でそう勧めてくれるラベンデルに小さく会釈をして、セフィールはカップを手に取り、中を覗いて少し首を傾げた。そうしてその香りにもしやの思いが首を擡(もた)げ、一口飲んで確信した。その移りゆくセフィールの表情を嬉しく思いながら、ラベンデルは口を開いた。
「ゼスト殿に譲っていただいたのだよ。セフィール、その方はよい腕をしているね。」
「もったいないお言葉…ありがとうございます。」
その茶葉はセフィールが独自に配合し編み出した、戦場に立つ父のために作ったブレンドだった。殺伐とした戦場の中にあっても孤独に陥ることなく、思い詰めることなく、真っ直ぐ前に…自分の信念に向かって進めるように。そんな思いを込めて配合したブレンドティーを父はちゃんと戦場にも携えてくれていたのだ。ラベンデルの手元にあるのが何よりの証拠…。セフィールは父を亡くして初めて涙を一筋流した。
「ゼスト殿はいつも必ず手ずからお湯を沸かし、丁寧にこの茶を淹れていたよ。この茶を淹れるときだけは絶対に誰の手にも委ねなかった。そうして一口飲むと優しい父親の顔に戻るんだ。一度このブレンドを作った息子殿にお会いしてみたいと思っていた。まさか…こんな形で、とは思わなんだが。」
そういうとラベンデルは瞳を伏せて自らのカップに口を付けた。思いがけない戦場での父の話にセフィールは今の状況も忘れ、カップを両手に持ったまま耳を傾けていた。
「この戦(いくさ)は民達の間で起こった単なる国境争いなどではない。化身と呼ばれる我ら翼人(つばさびと)のごく一部の者達が民達を巻き込んで起こした暴動だ。民達に何ら罪はないものを、その命の重さは我らと何ら代わりがないものを、我らのためにたくさんの命を犠牲にしてしまった…。
この場所はゼスト殿が、我ら大地でそのまま生きられない翼人(つばさびと)のために用意して導いてくれた場所なのだよ。先程門番がいた場所で、ゼスト殿は追いすがる敵兵より我らとこの場所の盾となって命を落とされたのだ。そうするより仕方がなかったこととはいえ、父上を犠牲にしてしまって本当に申し訳ないと思っている。」
「いいえ、ラベンデル様。私達緑の民は、ラベンデル様の祈りのおかげでこれまで平和に生きてこられたことをよく存じております。緑の民だけでなく、他の民達もきっとそれぞれの長(おさ)様への思いは同じでございましょう。長(おさ)様が祖国をお守り下さる限り、民達も全力でもって祖国と長(おさ)様始め化身様達をお守りすると思います。」
迷いなき曇りなきセフィールの視線にラベンデルは一度目を閉じると、今度は力強い視線でセフィールを見つめた。
「セフィール。その方(ほう)の父上が我が身のために命を落としたのも、その後(ご)その方(ほう)がここへ迷い込んで我と相見(あいまみ)えたのもきっと天の宿命(さだめ)なのだろう。となれば…その方(ほう)にとってはかなり辛い生(せい)となるだろうが、一つ頼みを聞いてはもらえぬだろうか?」
「はい。私で出来ますことなれば。」
カップを置いて神妙な表情になったセフィールにラベンデルは一つ頷くと、女官を呼んで一言二言耳打ちし、女官も心得たように頷いて四阿を出て行った。程なくして戻った女官に連れられて入ってきたのはまだ5つにも満たない女の子だった。
「おいで、クランツ。」
ラベンデルがそう呼びかけるとクランツと呼ばれた女の子はセフィールに向かってぺこりと頭を下げ、ラベンデルの元へと駆け寄ってきた。
「とうさま、ごようですか?」
「ああ。先にお客様にご挨拶しようね。」
「はい!」
そうしてセフィールの方へ向き直るともう一度ぺこりと頭を下げてにっこりと輝く笑顔を見せた。
「クランツともうします。よろしくおねがいします。」
セフィールも慌てて立ち上がると礼を取って女の子に名乗った。
「初めまして、私は緑の都の西外れ、名も無き狩人の村のセフィールと申します。」
「…?セフィール?おにいさまが?」
クランツの問いかけにセフィールの方が不思議そうに首を傾げると、ラベンデルが口を挟んだ。
「クランツは私の一人娘なのだがゼスト殿に殊(こと)の外懐いていてね。その方(ほう)の話をよく聞いていたのだよ。」
「そうでしたか…。」
「クランツ。こちらのお兄様がゼスト殿自慢の息子さんだよ。」
「わぁ!すてきっ!ゼストおじさまのおはなしにでてきたおにいさまにあえるなんて!」
クランツはますます瞳を輝かせるとセフィールに飛びついた。咄嗟に受け止めたセフィールだったが、相手は緑の長の一人娘。礼を解くわけにもいかず、かといって興奮してはしゃいでいる女の子から手を離すわけにもいかなくて抱き留めたまま固まってしまった。
「セフィールにいさまはおちゃをつくるのがおじょうずなんでしょう?おくすりとかもつくれるんだよね?ゆみやをいるのもおじょうずってきいたわ!」
「これこれクランツ。質問はそのぐらいにしてとにかく席に着きなさい。これから大事なお話をしなくてはならないからね。」
ラベンデルのその言葉にはっとしたような表情になったクランツは、次に心細そうな表情になってちらりとラベンデルを見ると促されるままに用意された椅子に腰掛けた。それを待ってセフィールも席に戻ると、先程クランツを伴ってきた女官が新しいカップを用意してクランツの前に置き、一礼してまた四阿を出て行った。クランツが大人しくカップに口を付けるのを見て、ラベンデルは表情を改めてセフィールへと向き直った。
「察しの良いその方(ほう)のことだ。ある程度予想はついているだろうが…。
膠着(こうちゃく)状態になったとはいえ、未だ主犯格の者は暴動を煽ろうとあちこちで画策しているようだ。ゼスト殿縁(ゆかり)の者だったとはいえ、一般の民であるその方(ほう)がここへ紛れ込んだと言うことは、ゼスト殿の犠牲の上に成り立ったこの空間もそう長くは持たないということだろう。
翼人(つばさびと)は数が限られている。そんな状況下で緑の長である私とその娘であるクランツが一所(ひとところ)にいるのはまったくもって危険な状況であるのだよ。幸いなことに、クランツの存在はまだ公にされておらず知っている者も少ない。だから我とは出来るだけ早くに離して誰かに託しておきたいと常々思っていたのだが…。
ただ一つ、制約があってね…。クランツには星読みという能力が備わっているのだが、まだ幼い分、我と離れるとその能力が逆に仇(あだ)になる可能性が高い。翼人(つばさびと)ならその力を押さえることも出来るが、翼人(つばさびと)と一緒ではこれまた身を隠すのに限界がある。だがしかし、一般の民に託すには星読みの力をクランツの代わりに身に宿し制御してもらわねばならないのだ。もちろん、一般の民には過ぎた力であるから寿命を極端に縮めることになろう。
その危険を差し引いても託せる民、となるとなかなかいなくて困っていたのだが…セフィール、その方(ほう)に覚悟が出来るのならば頼まれてはくれぬか?」
ラベンデルの言葉を受け取ってセフィールは震える手でカップに手を伸ばすと、自らブレンドした茶を一口二口飲んで気持ちを落ち着けた。父のために自分の信念を見失わずに済むように配合したオリジナルブレンド…自分の信念は何なのかよくよく考えてセフィールはクランツを見た。不安そうな面持ちで、でも、瞳には僅かに期待を滲ませて上目遣いに自分を見ているクランツと視線が合うと、セフィールは安心させるようににっこりと微笑みかけ、ラベンデルに向き直った。
「クランツ様に不服がないようでしたら、喜んでお引き受けいたします。」
「身を隠す必要がある分、一所(ひとところ)に長くは住めぬぞ?」
「父ゼスト亡き今、身よりは他にございません。特には問題ないと存じます。」
「そうか…クランツはどうだ?」
「わたし、セフィールがいいわ!ゼストおじさまにおはなししてもらったこと、もっともっとしりたいもの!」
父親と離れる寂しさを上回る何かを持っている人でなければ付いていくことは出来ないと幼心に思っていたクランツは、話に聞いていたセフィールならばとずっと憧れていたのだ。実際に会ってみてその思いは確信に変わっていた。
「そうか…ならば。
セフィール殿、その方(ほう)までも我ら親子の犠牲にして申し訳ない。クランツのことをよろしく頼む。」
「承知いたしました。謹んでお受けいたします。
それで…星読みの力と私の寿命の他に何か細かな注意等ございますでしょうか?」
「身を隠すのが目的であるからして、その方(ほう)の出自の村にはまず戻れないと思う。星読みの力を宿せば次にどこへ行けばいいか、何日いればいいのかというのは全て星が教えてくれよう。
それから…クランツのことは『クランツ』と呼び捨てでよい。変に敬語等を使っていると逆に怪しまれる。自然に妹に接するような態度で接してくれればよい。 クランツがその辺りのことは心得ておるからそれに合わせる形でもよいだろう。」
「承知いたしました。」
「クランツ。」
「はい、とうさま。」
ラベンデルは最後に父親の顔に戻るとクランツを優しく抱きしめた。
「まだ幼いお前に苦労をさせて申し訳ない…。しばらくの間、頑張ってくれ。」
「はい…。ゼストおじさまがセフィールをつれてきてくれたのですもの。クランツはだいじょうぶです。」
「セフィール殿。その方(ほう)の寿命が尽きるときが多分、クランツに星読みの力が戻るときになろう。まだ若いのに辛い役目を負わせて本当に申し訳ないが、娘を立派に育ててくれ。」
「はい。精一杯お守り、お育ていたします。」
こうしてセフィールとクランツの旅暮らしの日々が始まったのだった。


「クランツ。僕の最後の星解きだ。僕が息を引き取ったら君がいた痕跡を残さないようにして、僕の身体が冷たくなってしまう前に都へ向けて出発しなさい。都へ着いたら王宮へ行き、右側の門番にこの手紙を渡しなさい。いいね?必ず右側の門番に渡すのだよ?
確実に安全な場所へ案内されるまでベールを脱いではならないし、自分の名前も知らせてはいけない。滞在日数は…十日ほどになろうか…。その頃になればきっと自分の力で星を読み、出立の日時と場所はわかるようになっているだろう。」
「…はい。兄(あに)さま…。」
「…最後に…。僕の我が儘に付き合わせてこの村に連れてきてしまって申し訳なかった。ラベンデル様にも謝っておいておくれ。」
「いいえ…いいえ!ゼスト小父(おじ)さまの故郷に、兄(あに)さまの故郷に連れてきて頂けて、クランツはとても嬉しかったです!」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。元気で、頑張って。」
「……!兄(あに)さま!」
その夜、セフィールは微笑んだまま静かに息を引き取った。クランツは流れる涙を一生懸命拭うとセフィールの手を祈りの形に組み、その表情を焼き付けるようにしばらく眺めていた。しかし、残されている時間はごく僅かだ。セフィールの最後の言葉をしっかりと頭に刻み込むと用意していた荷物を持ってクランツはそっと家を出た。
折しも今宵は新月で微かな星明かりだけが辺りを照らしているのみだ。この闇に紛れて森を抜け、村へ来る途中に預けてきた馬を引き取って都へと旅立つのだ。
「セフィール…今まで本当にありがとう…。私は私の使命を立派に果たします。守っていてくださいね。」
一度だけセフィールの自宅を振り返ると、クランツはもう涙のない真っ直ぐな瞳で迷いなく森を進んでいった。


クランツ・ラベンデル、16の初春であった。

おやすみの月